今年の梅雨入りは九州南部が2日に入り、東北北部が梅雨入りするのは平年ですと半月ほどかかるのが、今年は足早に4日後の6日には入りました。梅雨前線は端的に云いますと、ベンガル湾からモンスーンにより湿った空気がジェット気流により東に運ばれ、それと合流するように太平洋の湿った暖かい空気が北上し、一方オホーック海の冷たい湿った空気が南下して形成されます。また、梅雨前線は北海道まで北上せずに本州上で消滅することが多いのです。

今年は少々違うようです。梅雨が無いと云われている北海道の函館では東北北部が梅雨入りした6日から20日まで雨が続きその間の降水量は100mm(平年値73mm)を越えました。札幌でも同じ傾向で6日から20日までは晴れる日は無く雨が続き降水量は99mm(平年値47mm)となっています。今年はこの時期の天気図にオホーック海高気圧が形成されていません。

福井県は梅雨の晴れ間が多く、降水量は山間部で100mmを越していますが、福井は61mmと平年の半分以下です。じめじめしたうっとうしい日が少ないのは有難いことですがそうとも言っていられません、梅雨期の雨は大事な水資源です。農業は言うまでも無く、日々水のお世話になっている私たちにとっても水不足にならないように雨乞いしたい気分です。

 「6月頃になると中国大陸方面で、日射が強くなり、このため揚子江(長江)沿岸などで低気圧が続発し、また本邦付近でも小低気圧が発生し、これらが、ゆっくりと東進する。一方オホーツク海方面は海面温度が低いため、高気圧が停滞し勝ちで、これが低気圧の東進をさえぎるようになるので、本邦付近は長期に亙って低気圧に伴う現象が続くのである。」

以上は「岡田武松伝」からの抜粋ですが、これは梅雨論の要点です。この論文により岡田武松氏は38歳で理学博士となり、50歳で中央気象台長(現気象庁長官)となりました。岡田武松博士は37歳の時、日本海軍とロシアバルチック艦隊が日本海で対戦したときの予報担当で、「天気晴朗なるも波高かるべし」の名文を残し、台風が2個あるときに、お互いが干渉しあうと言う「岡田の法則」。また、世界に先駆けて海上気象電報(航海中の船舶からの気象通報)の実施、世界で最初と云われる気象放送専門の無線電信所を神戸の海洋気象台に設置するなど、気象事業に多大な功績を残した人です。

同氏は27、28歳の頃福井へ出張を命ぜられ、「福井測候所長のお世話でアノ町の一等旅館某屋へ落ち着いてその晩は良い気持ちでグッすりと休んだ、翌日測候所や県庁へ顔を出して夕刻に宿へ帰って見ると女中が甚だ済みませんがお座敷を換えましたからと云うからヘィヘィと付いて行くと何のコッた狭苦しい汚い座敷へ案内された、固より昨日の室とは雲泥の差違がある、イクラ技手だろうが腰弁だろうが馬鹿にするない、只で宿るのジャネーンだなんて喉までタンカがコミ上げてきたが、ソコはそれコチラも余り威張れる身分でもないからグッと虫を抑えて、ヘイヘイ誠に結構なんて我慢をして仕舞った、然し実はアンな所へ抛りこまれるのは余り結構な事じゃない、翌朝は早々お暇をした、ソレから彼是二十年位にもなるがモウこりごりして福井へは足が向かない。この節はモウ時代も進んだから、技師なんて肩書きの名刺を出したって技師なんてのはのはザラにある世の中だから矢張り技師輩が位のトコロでケンモホロロにヤッツケられて仕舞う、イツの世だって技術家なぞの好遇される時代は来やしない。・・・コウ考えると地方測候所をやって行く方々の苦心は並大抵のことではない。」

以上は「岡田武松伝」からの抜粋ですが(原文ママ)、当時の国の役人(現国家公務員)の肩書きの一つが「技手」で、「技師」は中央気象台に4人しかいない高官で、今で言う中央官庁の部長クラスですが、当時は地方で冷遇された経験を述べたもので、県が運営していた測候所の待遇の悪さを嘆いたものです。梅雨から脱線しましたが、ついでに現在の地方気象台の官職名が今年4月から次のように変わりました。

総務課長は業務危機管理官、防災業務課長は防災管理官、技術課長は観測予報管理官。対外的に交渉などは対等の役職で行いますが、世間で管理官と課長が同格と理解してくれるでしょうか?、現場でささやかれた声です。

24日は関東地方で雹が降り所によっては雪が積もったようになりました。不時現象と云い、明治13年8月5日に福井県足羽郡淨慶寺付近で10cmの積雪があったと記録されています。「日本気象資料(1939年)」より

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