近年、時折、私は、自分はまさしく今、広大な宇宙に浮かぶ天体の一つのこの巨大な地球上に立っているのだという自覚を実際に実感したいと切に思うときがあります。そんなときには、目の前に広がる視界をさらに自分のイメージの力で地球の果てまでどんどんと限りなく広げていくのです。するとほんの一瞬ですが、地球の大きさを、まさにその地球の上に立っている自分を実感できたように思えるのです。

仏の目は半眼だといわれています。半眼とは、その眼差しが現実のこの世の世界と、この世を超えた超感覚的世界の両世界に向けられているというのです。

仏の眼差しまではいきませんが、地球の大きさを実感してその上に立つ自分を実感しようとするとその眼差しは目の前に拡がる光景を見つめながら、必然的に内に向けられ、イメージの世界に入っていくように思われます。

その地球上では、日々、様々な所で様々な人々が様々なことを行ってきております。最近では、人の命に対して目を背けたくなる、世界を震撼とさせる事件があまりにも多く起こりすぎています。ふとかつての湾岸戦争が思い出されてくるのです。

今から25年前、1990年の莫大な埋蔵石油資源をめぐって、イラクによるクウェート侵攻に端を発した、イラクとアメリカを中心とした多国籍軍によって行われた湾岸戦争。その状況がテレビを通して毎日のように世界に流されました。その生々しい戦争の実況放送は大変多くの人を画像にくぎ付けにしたものでした。

しかし、テレビというメディアを通して報じられる戦争は、戦争の真っただ中に実際に身を置いて、すべての感覚を総動員して体感する戦争体験とははるかにかけ離れたものです。また、日本より遠く隔てた国、中東で行われている戦争そのものは、その放送を見る者にとっては、よほど深いかかわりがない限り、心を痛めながらも、他事であり、まるで一種、ゲーム感覚的ともなっていたともいわれています。この報道が、実に悲惨なことに対するバーチャル的体験の顕著な始まりだったようにも記憶しているのです。

こうした実体験を伴わないバーチャル的体験が主流となって先行する現代の社会においては、大人や子どもを問わず、非道なことにおいても、まず痛みの前に好奇心が先に立ち、人間としてあるまじき、むごく残忍なことが世界の各地で繰り広げられるのです。これまでの世界や日本の歴史を振り返るとこうした無惨な争いや、こうした殺りくは確かに数多く繰り返し行われてきています。そうした状況の中に身を置かざるを得ず、戦争の悲惨さの渦の中にあった人々の心からの切なる願いが、長い歴史を経て今日の戦いのない「平和」の獲得につながってきたと思うのです。

しかし、そんな長い人々の努力も身近なところでは「いじめ」をはじめとする「権力の行使」を代表とする、人間という存在の根源的在りようであるともいわれる「悪」という力のもとにおいてはなんとももろく、一夜にして崩れてしまうことでしょう。そうしたもろさを私たちは現代という世の中で実際に目の当たりにさせられているのです。そして尋常ではない人間の悪の力のすさまじさとその根の深さをまざまざと見せつけられているのです。(「人間の悪」をどう受け止めるかについても機会をとらえて触れたいと思っております)

■存在者としての地球―ハンス=ヴェルナー・シュレーダー氏の復活祭の講演録よりー

ドイツの「キリスト者共同体」(※)の司祭であるハンス=ヴェルナー・シュレーダー氏は何度か来日されて貴重な講演を私たちにしてくださっています。2001年春にも来日され、東京をはじめ各地で「復活祭」を通してのキリストと地球について実に詳細な内容を、いつもわかりやすく通訳してくださる小林直生司祭のこれまたわかりやすい訳により、実にわかりやすく話してくださっています。

※1922年に中部ヨーロッパで開始されたキリスト教運動。人智学アントロポゾフイの創始者であるルドルフ・シュタイナーの助力を得て創立された自由な精神のもとで時代にふさわしい宗教活動を展開することを目的とする運動

今日の科学や天文学では、地球を宇宙の単なる一つの「物質」としての星であるという感覚で見るのですが、地球はそれ自身が一つの宇宙的な偉大なる存在、あるいは「存在者」として捉えることができるというのです。存在者である地球は、私たちと同じように、体だけでなく‘命’があり、‘魂’があり、そして‘霊である自我の恵み’があるというのです。そして、その地球は、はるかかなたの遠い過去において、「偉大なる決意」をしたというのです。

その「決意」とは、地球を人類の住まいとして提供することでした。地球は人類に住まいを与え、人類とともに歩んでいく決意をしたというのです。人類を担うということですから、この決意は、大変なことなのです。当時どんなことが、どんなに無茶苦茶で、大変で、悲しいひどいことが起きるか十分承知の上で地球は私たち人類を受け入れたわけです。人間は地球上で破壊活動をしたり、いろいろな苦しみを繰り広げたりしています。

しかし、それにより、ちょうど人間が苦しみや困難を体験することで内的に強くなるように、地球自身も将来地球がそうであるべき姿を目指して、進化するための力を養っているのだというのです。もし、地球が、人類がもたらすいろいろな困難を体験しないで楽々と成長していったとしたら、地球は本来の能力を持つことは不可能でしょう。それは子どもの色々ないたずらや、悪いことをしたりしても、それが子供にとって必要なことで、成長するのに必要なことであると母は知ってそうした苦しみを十分に受け止め、しかし、信頼を寄せてその子どもの成長を見守る母のように、ちょうどそのように地球は人類に接しているというのです。

その時、地球もある意味では人類が行う馬鹿げたことに対して自分を守ろうとしているのだというのです。人間が地球のことを忘れて非常に馬鹿なことをやっているわけですね。地球というお母さんがそのとき、「私はここにいるんだよ。私だってここにいるんだ。あんたがたたは何を考えているんだ。私のことも考えなさい。」そう言ってこうちょっと動いて(強く足踏みをして)揺らす、それがある意味で地震の一つの原因なのです。

地球にとって環境破壊ですとか、大気汚染とかいうのは確かにひどいことです。ひどいことですが、それより地球にとってもっとひどいことがあります。それは、霊的な汚染なのだという。人間の意識の霊的な汚染です。つまり、物質主義、それから唯物的な考え、そう言ったことが地球をよりひどく苦しめることになるのです。外的環境破壊というのはつまるところ私たちの意識の霊的な汚染の結果だと言われるのです。(参照 『イースターの秘密』ハンス=ヴェルナー・シュレーダー 涼風書林 地球とキリスト-2 ) 

■子どもが置かれている今日の現状

今、世界にあって、日本という国は、私たち国民を、いやそれだけではなく、これから育ちいく未来を背負っている子どもたちを乗せたその船をどこに向けようとしているのでしょうか。それはいかなる理由からなのでしょうか。

保育という仕事を通しても感じられ、危惧されてきたものが、保育指針の改定(それまでのあくまで参考としての指針であったものが、法的に位置づけられ、強制力を持った保育指針として改定された)に始まり、年を追うごとにより鮮明に打ち出されてきているように思われてならないのです。

子どもたちの学校教育の一環として行われている、子どもたちへの宿題の内容に始まり、連合運動会、連合音楽会等々、その多くが、子どもや他校との比較の中でのコンクール形式がとられ、優秀さが競われているのです。それに加え、オリンピックの日本への招致。そして何年か後に控えている福井国体。そのために教師は、子どもの年齢をはるかに超えて高度な内容を目指しがちなことが、保護者も参加できるその発表会において、〝こんなに高度なことを…。先生や子どももどんなに大変なことだろう” と、感動の前に、その先生たちの大変さが辛さとなって伝わっていた親もいらっしゃるのでした。

子どもは、何のために教育されるのでしょうか。学校教育とはいったい何なのでしょうか。

経済世界に置いて、能力的に他国との一番を競わなければならないために、あるいは近年の間近に迫ってきているそうした不穏な世界状況の中で、権力争いの道具となるべく子どもの教育が知らず知らずの間に本来の子どもの本来の育ちとは違った方向に向けられてきているように思われてならないのです。

そうした社会の流れは、子どもたちの学力、体力(オリンピックを控えての)の向上に向けられ、より多くの高度な内容を、全くゆとりのない限られた時間の中でこなすことにおいて、教師も国の歯車的存在にならざるを得ないようです。

親御さんも親御さんで、親としての精いっぱいの子どもに対する思いとして、そうした学校教育の落ちこぼれにはさせたくないという必死の思いから我が子を塾に通わせざるを得ないのです。それに加え、将来、子どもがこの世の中にできるだけ適応して生きていけるように、あるいはより優位に生きていけるために、知的に、能力的に、より優ることを目指して一生懸命になるのです。

ですから、身近にいる多くの子どもたちの毎日は、習い事や塾通いで極めて多忙というのが実情なのです。子どもたちも“みんながしているから”ということで、何の違和感もなく、あるいは積極的にそれを受け入れるのです。親御さんの多くは、こうした状況に対して、あまり疑問を抱くことなく(中には生きがいとして、あるいは、仕方のないこととして)その結果、さらに一生懸命働かざるを得なくなっているのです。

そして、昨近の世界の状況を見ていると、もう、遠い国の出来事ではなくなって、まさにその火の粉は現実なこととなって日本にも降りかかってきているのです。単なるバーチャル的出来事として、他人事として、呑気に受け止められる状況ではなくなってきていることを、皆さんも痛切に実感されていることと思います。まるで戦前の状況に逆戻りをしようとしている世界状況の中で、日本が他人事ではいられなくなってきているのも事実なのでしょう。だからと言ってこうした現状に対して、子どもを権力争いの道具にしたいと思う親御さんは、今はまだ、誰もいないでしょう。

■ルドルフ・シュタイナーがその思想を通して提示するもの

今日より多くに人に知られるようになってきている「シュタイナー教育」や、その教育の背景となるシュタイナーの思想は、100年前、まさにこうした世界の状況を鳥瞰し、危惧して私たちに,子どもの教育をはじめ人間に関わるすべてにわたっての在りように対してドイツの思想家ルドルフ・シュタイナーが多くの講演活動を通して示唆されているのです。

これまで折に触れ、シュタイナーの教育や思想について、皆様にお伝えしてきました。ここであらためて、シュタイナーの思想を背景とする教育・シュタイナー教育について真正面に向き合って、伝えてほしいという、こうした時代にとってまるで啓示とも受け止められる要望もいただいております。

今こうした今の時代だからこそ、皆様と一緒にそのシュタイナーの教育を改めて正面からたどる必要をとても強く感じてはおります。しかし、その思想は、その世界観、人間観も通常の私たちのおもいの枠をはるかに超えて、広大で、深く、通常の私たちの考え方では受け入れ難く、推し量り難いことも多いように思います。

ですからシュタイナーの思想やその教育を正面からご紹介するということは、これまでその思想や教育について学ばせていただいてきて、これからも学ばせていただくという、あくまでも学ぶ立場にある私にとっては、その立場を超えることですから、そう簡単にお引き受けできることではないのです。

しかし、そうした私の立場でも、私のできる範囲でお伝えすることが、何か子どもたちの育ちにとって、あるいはこうした時代にあって私たちの“新たな光”となるのであればという思いから、あえて、ご紹介することは、私に課せられていることでもあるのかもしれません。

シュタイナーの思想やその教育に関する本は、今日においては実にたくさん出回っております。直接シュタイナーによって書かれた著作がさまざまな人によって訳されています。また、それらの著書の内容についての講演、そしてその講演の講演録、などなど。

また、シュタイナーの思想や教育について深く学ばれた方や、日本で立ち上げられてきた幼稚園や、学校で、実際に実践されてきている方々によって、親御さんたちがその子育てに実際に生かせるように、容易に内容を理解できるように配慮して、かみ砕いて書かれた本もたくさん出回っております。また文中、これまでもそうしてきたように、知っている範囲で、参考になると思われる本や講座や講演会などもご紹介していけたらとも思っております。そうした中から、このご紹介をきっかけに、さらに各自で、ご自分に合った本を選ばれるなり、直接、講座や講演会に出かけられるなり、ネットで検索されるなりなどして深めていっていただくことを心から願っております。

次回ではルドルフ・シュタイナーとその思想についてわかりやすく紹介されている文章の紹介から、その思想を背景とする、シュタイナー教育の「要」について、私の拙い子育ちの体験での確かめにも触れながら、わかりやすいように、できるだけ結論的な方向性から、ご紹介をしていけたらと思います。

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