◆福井の「宝」を私たちの意識に蘇らせるために

6月6日、福井で講演される向笠千恵子氏の著書『和食は 福井にあり』(平凡社新書)を読ませていただきました。そのまえがきに、県外の人ながらかくも福井の県民性をズバリ見抜かれ、実に端的な言葉で指摘して書かれているのには、福井に住む私にも、あまりにももっともだとおもえる内容におもわず笑うしかなかったのです。そこには次のように書かれていました。

「私は福井県を日本のひな形としてとらえてみることにした。名づけて考福学。福井を考える、食べる幸福を考えるといった意味合いである。もっとも、福井県がこの十年ほど使っている観光PRのキャッチコピーでもあるから、福井で食べられる幸福を、じっくり味わう“口福学”といったニュアンスもある。食材から行事食、食器から包丁に至るまで、この県には。和食を彩るすべてがそろっている。もしかすると、福井県の食文化を調べることで、和食全体を俯瞰することができるかもしれない。――――― そんなでおもいつきから、和食と福井県の結びつきを調べたわけである。つけ加えると、福井県に目を向けた理由はもう少々ある。最近は、暮らしやすさなどの見地から福井県がメディアでしきりに取り上げられるが、県民気質について触れているものは見かけない。そこで、あえて申し上げると ―――― 福井は雪深い土地なので粘り強くものごとに取り組むと言われ、それだけに純朴な人が多い。なにごとにも努力を重ね、工夫を凝らすのだが、いっぽうでは控えめでお人好しだ。それも、だまされたことに気づかないくらいに生真面目なのである。福井県は南側が京都府に隣接し、北は雅びな金沢文化を誇る石川県だから、間にはさまれてちょいとコンプレックスもあるものの、追いつき追い越そうという闘争心まではもたない。穏やかなのだ。もうひとつ余計なことを言えば、旧越前国の嶺北と奥越、旧若狭国の嶺南では、気質にだいぶ違いがある。いずれも福井県人には面と向かって言いにくいことだが、よきにつけあしきにつけ、そういう素朴さがいかにも日本人っぽい。世にあふれている日本人論をすべて「福井県人」に置き換えてもいいくらいに、長所も短所も備えているのだ。そんな福井県人の食とはどういうものか、あるいは、どういう食が福井気質を育ててきたのか。私なりの好奇心 ――― 名づけて「俯瞰食文化学」という視点から考えていきたいと思う。これぞ考福学&口福学なり。」

ここに書かれていることは福井の「食」の分野においてだけではなく、子育てやほかの様々な分野においてもいえることだと思います。
「福井の宝探し」ということが行われてきたことを記憶しております。周りには宝がいっぱいあってもそれに気づかず、逆にその宝を卑下し、切り捨てようとしたり、切り捨てたりしています。そんな宝をもう一度私たちの意識で蘇らせることが福井にとってとても必要なことだとずっと思ってきました。

シュタイナーの思想・人智学(アントロポゾフイ)は、今日では、その理解の深さにおいての違いはあるでしょうが多くの人たちに知られてきているようです。そしてこのコラムでも機会をとらえてご紹介させていただいてきました。ですからいまさら改まってご紹介することもないのかもしれません。

しかし、何かと不穏なこの時代、改めて、シュタイナーの思想をご紹介することもとても重要になってきているように思われるのです。

ドイツのルドルフ・シュタイナーによって始められたその思想、「人智学」とは、その観点によってその意味づけは大きく異なっているようにおもえますが、学問というよりも、さまざまな世界の分野や立場において、その考え方、見方に生命を与え、蘇らせるという意味での道具的役割を果たす以外何物でもないともいわれるのです。その広大で深遠なシュタイナーの思想は人間に関することのすべての分野に及んでいますので、そのすべてを詳細にご紹介することはとうていできませんが、ここでは「子どもの教育」という視点に重きを置きながらご紹介していきたいと思っております。そのシュタイナーの思想・「人智学」をご紹介することによってその示唆が、福井の子どもをはじめ、子どもたちの健やかな育ちにとって、なにかよき助けとなればこんなにうれしいことはありません。

◆ご紹介にあたっての導きの糸

今は朝の4時。‘道が混まない間に早く出たいので、5時半から6時までに迎えに行きますから’連休のため実家に帰省していた、甥(亡くなった兄の子)から昨日電話があったのです。

先日京都での人智学講座で友人からいただいた研修会の案内、アントロポゾフィー医学を代表として指導的立場にある医師 ミヒャエラー・グレックラー女史の来日講演会「健康をつくる~教育と医療の協働」が大阪では5月6日に大阪府立大学で行われ、それに参加するためです。

自分の父親である私の兄を外科医という立場にありながら、病から救うことができなかったことから現代医学への限界を目の当たりにした甥は、医学における新しい世界への模索のひとつとしてとして、ルドルフ・シュタイナーの思想に基づく人智学医学(アントロポゾフィー医学)にも関心を示し、2年ほど前には、「日本アントロポゾフィ―医学のための医師会」の方のお世話で、ドイツでのアントロポゾフィーの病院や医療施設の視察にも出かけているのです。

兄の死をきっかけに、医療の面から食事の在り方にも関心を深め、私の作る食事にも関心を持ってもらえるようになったのです。

その日の前日は、ちょうど子どもの日でした。‘ばあちゃん、筍ご飯を作って!’孫の頼みに、今年は裏年であまり採れないからか、従妹から何気なく誘われていた、母の実家に筍を掘りに行くことを突然思い出したのです。昨年は、‘竹の子を放っておくと藪が茂って困るので、忙しくて掘っていられないので筍を掘りに来てほしい’といわれて、親類縁者で出かけたのです。その筍掘りがあまりに楽しかったからでしょうか、今年は家族総出で行くというのです。母の実家に孫たちがみんなで出かける機会はこんな時にしかないものです。せめてこうした機会にでも母の実家の空気に触れさせたいという思いもあったのです。

竹藪の山を背にしたその庭には水が湧き、山菜の王者‘わさび’や‘たにぶき’さえも生えているのです。甥が好きだというその山菜や筍ご飯などを甥に持たせるために少し早めに起きて温め直して、準備していたのです。

5時半きっかりに迎えに来ました。その日はゴールデンウイーク最後の日で、相当の道の混雑が予想されていたにかかわらず、道中は何の支障もなく、スムーズに走れ、2時間ほども早くに会場に着いてしまいました。

‘こうした研究会は、何のために行われているのですか?シュタイナーの思想を広めるためですか?’こう甥に質問され、ふとグレックラー女史のことを思ってしまいました。

グレックラー氏はアントロポゾフィーの家庭で育たれ,世界中で実践されているアントロポゾフィー医学の指導的立場にある方です。アントロポゾフィー医学の観点から、世界を駆け巡られて講演されているのです。日本でも医師をはじめとする医療に携わる方々を対象とする数年かけての「医学講座」の1サイクルをすでに終えられています。そんなグレックラー氏を拝見しているとまさにグレックラー氏は、その使命のために生まれて来られている方だと思えてしまうのです。

それは、アントロポゾフィーの思想を広めることが目的というよりも,その示唆するところのものによって、一人ひとりの人がそれぞれの立場で自分の中の本当の自分に向き合い、その一人ひとりの自分が自分でどう判断してどう行動するかを決定する「自己教育」への目覚めヘの促しにあるように思われます。

そうしたグレックラーさんは相変わらずお元気そうで、そのユーモアに満ちた講演内容は医師、教師、治療教育者あるいは、医師、教師、牧師・司祭それぞれ三者の立場についての人智学的観点からの意味の解釈やそれぞれの立場の違いや共通点について話されていました。

今回の受講は、甥への橋渡し的思いの気のゆるみもあったり、朝が早かったこともあり、時折睡魔に襲われながらの受講でしたので、内容が飛んでしまったところもあったのです。隣で甥が‘なかなかむつかしい’とつぶやいているのを耳にして、それはもっともなことだと思ったのです。医学という世界で現実にそれを実行していくことに対する難しさという意味で言ったのかもしれませんが、講演内容を理解するにおいての難しさでもあるようにも思えたからです。なぜならグレックラー氏の話はとりわけ難しいものではなく、シュタイナーの人間学の基本である、人間の基本的構成要素をふまえながら、あらゆる人智学の‘点’的内容を‘線’として‘面’としてあるいは‘立体’として融通無碍につなぎ、組み合わせて話されていて、その内容はまさに人智学の応用編にも近いとも私にも思えたからです。

シュタイナーの思想は、私の経験から見て、私たちが学ぶ一般的な考え方では推し量り難い、見えない世界をも考慮に入れて人間をとらえようとしていますので、その考え方や世界観、そこで使われている用語などに馴染みになるまでは‘なんだかわからないなあ’と難しく思われるのが当然なことだと思えるからです。

講演と講演のわずかの休憩時間に、関西でそれぞれに人智学と関わっている幼稚園、学校、治療教育などの教育関係者や医師や、医療関係に従事している方々によって書籍やその施設での手作り品が販売されていました。その中に、3歳ぐらいまでの幼児期の子どもに与えるにふさわしい手作りの人形も販売されていました。色,生地、作りに十分に配慮されている人形であることが見ただけでもよくわかりました。

日頃、親しくしている方のご子息がいずみ保育園の卒園児で、赤ちゃんが生まれお父さんになられたというのです。そのことをお聞きした時から、その誕生のお祝いに“これなら”と思えるものをあげたいと思っていたのです。しかし、その“これなら”と思えるものになかなか出会えなかったのです。でも、その人形を見てすぐに“これだ!”と思えたのです。赤ちゃんが生まれたことを知ったのも遅かったのですが、お聞きするともうすでに一歳になられているとのことです。

そのお人形に添えて、育児の参考になるシュタイナー教育の何か良き本も是非に添えてあげたいとも思っておりました。参考にすべき良き本はたくさんあるのですが、差し上げるにふさわしいものとなるとまた思案してしまいます。そんなとき、以前、シュタイナー教育に関心のあるお母さん方へのプレゼントのためにと、まとめて購入してあった、ある幼稚園での講演録が出てきました。何年振りかにさっそく内容を確認するために読み直してみました。幼稚園での保護者を対象にした講演でしたので実にわかりやすく基本的なことがきちんとおさえられて話されているのです。これなら薄い冊子ですし、どなたでも読みやすいと思われ、その冊子を添えることにしました。それに加えて檀家のおうちでもありましたので、私も編集に関わらせていただいた「浄土宗保育指針」も前々からおうちの人にも差し上げて読んでいただきたいと思っていたのです。

お伺いすると、日頃何かと親しくさせていただいているご子息のお母さんがおられました。そのお話によると、お孫さんにあたる赤ちゃんはすでにいすみ保育園に入園されているといわれるのです。ですから、‘お嫁さん(赤ちゃんのお母さん)には既にシュタイナー教育に関する本を読むように私が勧めておきましたところ、すでに入手して読んでいます’と言われるのです。‘浄土宗保育指針は、私がまずぜひ読ませていただきます’と‘やっぱり檀家の人だなあ’とおもえるうれしいことも付け加えてくださいました。

幼児期の一番のポイント〝幼児期というのは ひたすら模倣するものだ”という「模倣衝動」から話をはじめられている『子供の心を考える』(こどものくに幼稚園 創立30周年記念講演会 高橋巌 講演 1986年12月5日発行) を参考にさせていただきながら、シュタイナー教育の赤ちゃんからの子育てからご紹介させていただきたいとおもいます。

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