いろいろな予定があってなにかと心せわしくしているときでした。「寺での行事があるから、お花を活けに来てほしい」寺の住職からの電話です。

どこにどのような花を生けたらよいのか、そしてその花材はどこで入手すべきか、あるいは買ってくるべきかをあらかじめ見ておくためにまずは寺に行ってみました。

寺の前の駐車場に車を止めると、まず目に入ってきたのは、塀越しに枝もたわわにオレンジ色の実をいっぱいつけた琵琶の木でした。ああもう琵琶の実の季節なのです。その葉を体の治療のために使うために植えてもらった琵琶の木があんなにたわわに実をつけるまでに生長していたのです。

そして境内をぐるっと一回りすると、いたるところにあじさいが、今を盛りと様々な色合いで咲いているのです。私の畑には確か赤と白のタチアオイの花が咲いているはずです。これで花材は決まりです。

分身の思いもする大きく育った琵琶の木のその枝は、もう手が届く高さにはなく、手で手折れるほど細くはないのです。はしごをかけ、実がついていて枝ぶりのよさそうな、幾本かの枝に‘分けもらうね’ という思いで、のこぎりを入れました。そして、その枝々に色とりどりのあじさいを添えるのです。それらの花材が収まりそうな花器を探し出し、置く部屋に合わせて、大雑把?にも、大胆?にも限られた時間の中で少しでも参加される方々の心が和めばと精いっぱいの心を込めてそれぞれの部屋に生け、よしとしたのです。

◆「うららの福井昔ばなし」

6月7日、3時から福井市立図書館で行われた「うららの福井昔ばなし」に行ってきました。市立図書館は何年ぶり?いや何十年ぶり?その日は所用と重なり時間ぎりぎりながら奇しくも参加できました。

福井弁で語られるいくつもの福井に伝わる、あるいは子どもの頃、家の人に聞かせてもらったというお話に耳を傾けていると、それまで福井の言葉についてそれほど深く考えたことがなかったいろいろなことにも気づかせていただく機会ともなりました。

子どもは、大人たちが周りで話す言葉を聞いて育ちます。特に子どもの周りで親や家族の話す言葉の影響は大きいものです。親や、家族がそれぞれのその土地、土地で使われている言葉で、繰り返し、繰り返し話すのを毎日の生活の中で耳にしながら自然にそこで話される言葉を自分の言葉として身に付けていくのです。

◆お手本と模倣

おはなし会が終わって、市立図書館の前の本屋さん『じっぷ じっぷ』さんにも寄ってみました。本当にここも何十年振り?のことでしょう。 店内は当時とあまり変わりがなく、一歩中に入れていただくと当時のことが懐かしくありありと思い起こされてきました。

福井で初めてシュタイナーの研修会が行われたのは、店主でおられる清水さんが主宰されてのことでした。

講師としてお迎えした高橋巌氏がその店内の本を見ながら“幼児期にとって一番大事なことは「お手本」「模倣」です”と、何の前触れもなく、そのお店の中で突然私たちに話されたのです。そのことが今でも心に強く残っているのです。重要ことだけを告げられ、こちらがさらに突っ込んで質問でもしない限りそれに何らかの説明を加えられたり、解釈されたりすることは一切されないのは当時から少しもお変わりのないようです。

もうずいぶん昔の月刊誌になりますが、その月刊誌『リーリエ 2月号―高橋巌 講義録』(1984年7月6日発行)では
「特にシュタイナーの観点から言いますと、生まれてから21歳までは、放っておいても人間は大きな変化を遂げているのだというわけです。放っておいても変化を遂げるときのその変化を、さらにふさわしいかたちで変化させようとするか、それともそのまま放っておくかということが問題になるときに、シュタイナーはふさわしい変化のために手を差し伸べるのが、基本的教育だというのです。それが学校教育ということになるわけですけれど、同時に学校というのは、保育園とか、幼稚園とかも含んでいるのです」
と、21歳までのシュタイナー教育の基本的な考え方についてきちんと示されています。教育の中には、当然、親や家族による家庭教育も入れて考えたいと思います。

幼児期の子どもは、子どもの周りで起きるすべてのことを全く善きこと、信頼すべきこととして受け入れていってしまう時期であって、それはまさに大人にとっての「帰依」する態度に匹敵するのだといわれています。

ですから7歳までの幼児期は、子どもを取り巻く人的環境や物的環境やそこで行われている活動の‘どのように’ や、行う人の‘どんな気持ちで’までもがそのままに感じ取られて模倣されていくのだというのです。幼児期の子どもはまさに超能力者的存在でもあるのです。

生まれてから7歳ぐらいの子どもにとって、まず大切なことは、子どもにとって身近な存在である両親や家族やその家庭環境が子どものお手本としてふさわしい存在となるよう環境を整えることにあるといわれているのです。

「あなたは子どものお手本としてふさわしい存在と思われますか」と問われたとすると、その問いは誰にとっても、とても耳の痛い問いだと思います。子どもにとってよきお手本であると胸を張って言える立派な大人はそういないと思うからです。ですから、子どもに真似られるにふさわしい大人であるということは、まずは“大人の姿をお手本として子どもは育っていくということを肝に銘じて自覚し”、“「子どもの成長にとって良いことを行い、悪いことはしない」を念頭に置いて、なるべく子どものお手本としてふさわしい大人であろうと努力する人”と私は解釈しているのです。

シュタイナー教育では、物的環境としては、それがあくまでも自然なものであって、人工的な物でないものが(描かれている絵などが戯画(キャラクター)、コケットリー的な物ではないこと…日本ではそうしたものを探そうとしてもなかなか見つからないのが現実です)がとても重要視されるのです。

◆全身が感覚器官

さらにこの時期は感覚の時代ともいわれ、全身が感覚器官であるとも言われています。その感覚は外界に対して何のバリヤも張られていない全くの無防備の状態でありながら、その感覚を極度に集中して、周りの出来事や思いをそのままに取り入れ、血や肉や人格を形成していってしまうのです。

感覚には一般に五感と呼ばれている視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚(シュタイナーでは12感覚として捉えています)が挙げられますが、幼児期おいては、特にその中でも聴覚や触覚=ふれあいが重視されるのです。

赤ちゃんは生まれるまでは母体に包まれ何の不安もない状態から、突然外界にさらされ不安にさらされる状態に置かれるのです。そんなとき、柔らかい衣服に包まれ、外気の寒さから守られ、空腹になれば抱っこされておっぱいをもらって空腹が満たされ、おむつがぬれれば取り替えてもらって、気持ちの良い状態にしてもらえる。そうした毎日の心地良いふれあいを通して、そうした状態に世話をしてもらえる人がお母さんという存在であるということがわかってくるのです。そして、そのお母さんを見たり、抱っこされるだけで安心するようになってくるのです。

こうしてまるでお母さんと私との区別がつかないくらいもっとも身近な存在として深いきずなでつながり合っていくのです。

また周りにあるものにふれたり、触ったり、なめたり感覚を総動員して対象と一体となって、周りの外界とのつながりも深めていくのがこの時期の在りようでもあるのです。

関連記事
あわせて読みたい