【“生かされている命”に向き合う そしてその育み 】
<終戦70年にあたって――子どもたちが夢を持って生きることができる未来を ――そのために、今私たちがやらなければならないこと>

◆父や母の手紙

私の父や母が戦争の最中にしたためた手紙や書類が、私の実家に残されており私の手元に届きました。これまで、私はそんな手紙や書類があることなど家族の誰からも知らされたことはなく、今回、初めて目にしました。

「シュタイナーの思想による子どもの成長」について書かせていただく前に、今回は私の父や母の手紙を皆様にもお伝えすることを挟ませていただき、そうした手紙や書類が今まで残されていて、今になって出てきたその意味を問うためにも、あえて父や母の手紙をご紹介させていただきながら、突然戦争に巻き込まれた一般市民の在りようについて一端でも知っていただく機会になればと思います。今の日本の進もうとしている方向に私たちの関心を向け、一緒に考えることができたらと思うのです。

父からの手紙は何通か残されていました。ずっと以前、まだ私が学生の頃だったでしょうか、伯母に父の手の跡である父の手紙を見せてもらったことはあります。そのとき父を全く知らないで育った私には“これが父の字であるのかと”そのおおらかな書体の手紙に見入った覚えはあるのです。

しかし、まだ何通かの手紙があったことは今回あらためて知りました。そして、その中の一通を何とか読み通し終えて胸が詰まりました。それは今まさに南洋の島、テニアンが、海から、陸から、空からの、いわゆる玉砕島という名とは全く裏腹の、当時島に住んでいた人々にとってはあまりにむごい戦場と化す寸前の状況のなかで書かれたものだったのです。決死の覚悟で、トラック島(今はチューク島)から、内地の親族、伯父や義伯父に書き送った手紙です。その全文をご紹介します。

◆父の手紙

拝啓
御無沙汰致しました。御一同様
お変なき様子 安堵致しました。
当方一同無事御休神下され度
今般社命に依り突然○○方面の調査隊として加入いたし、四月二十二日トラック島に待期中、明後日○○船に便乗○○○○と共に勇躍出航目的地へ向かって出島致す事と相成 途中の危険は勿論、上陸後の多大なる危険は覚悟致さねばなりません。元より決死の覚悟は出来ては居るものの、命令の突急のため家族に対する今後の・・方進も全然通知する時間もなく準備も全て不充分なるを遺憾に思います
久子(母)には当島(?)より通信致しましたが 不幸小生の身に万一の事有れば子供の事久子の今後の法進(方針?)等も考えねばなりませんが,小生に万一の事有れば,勿論 内地へ帰国するは必常なるも帰国後の事は姉、兄上様に相談して善処(?)する様申し傳へ果(?)きました故かかる場合は ?前通り宜敷お願申します
皆々の御健勝をお祈り申し上げて後事を托して筆を止めます。
ではさようなら           トラック島にて
徳山博
――様
――様  御一同様

封筒には、四月二十四日(多分昭和19年)と日付が記されてあります。きっとこれが父からの最後の手紙になったのではと思います。

こうした非常事態の中にあっても、その字からは何ら精神的うろたえや、焦りや恐れや不安などからくる精神的ブレが微塵も感じられません。平常時に書かれた他の手紙とその字においては全く変わらないのです。おおらかで落ち着いて書かれている文字に、昔の人の精神の在りようをまざまざと学ぶ思いがしたのです。

母が南洋の島ポナペ島で求め、戦争のさなかテニアン島から引き上げるときに持ち帰ったというヤシの葉で編んだ籠が、まだ実家に残っていたことを知らされたのは2年ほど前のことでした。その籠は母の生前から昔の家の2階の箪笥の上にいつも置かれていて、子どもの頃からよく目にしていたのです。

中に何が入っているのか見たことも、母に聞いたこともありませんでした。もう何十年も前に家を建て直していますので、その籠は、てっきりそのときにでも処分されているものと思ってきておりました。それがまだ残されていたことを知り、耳目を疑う思いでした。

よく兄が残しておいてくれたものです。助かって今あるのが不思議だと誰からも言われるあの戦争の最中に引き上げてきて、物心つく頃から母や伯母の苦労をじかに見て育った兄には、母のものを簡単に処分しようなどという思いは全くなかったことなのでしょう。でも、なぜか兄は生前、その残されている手紙や書類のことについては、一度も私たちに話してくれなかったです。

兄の亡き後、残された兄の家族にとってはどう処分していいのかわからないので私に託してきたのです。実家からもらい受けたその籠の中には、セピアどころではなくチョコレート色に変色した封筒に入った手紙や書類等がたくさん入っていたのです。埃まみれになったそうした手紙や書類を預かって、私もどうしてよいのかちょっと途方に暮れ手を付けられないまま、そのまま身近に置いていたのです。そして心に余裕が少しできたとき、埃を払って、ファイルに一枚一枚の書類などをあまり吟味する時間もなく、ざっと挟んでおいたのです。

そこには、引き上げてきた当時の状況や様子について、また、引き揚げ後、私たち3人の子どもを養育していくための生活を、必死に切り開くために、まだ36~37歳の、母の大変な苦労の跡が、南洋庁をはじめ、福井の行政やそれに関わる親族とのたくさんの書類のやり取りの手紙や書類を通してひしひしと感じられてはいたのです。

しかし、それら一つ一の書類の詳細に目を通したり、手紙を解読するには、あまりに達筆すぎる昔の人たちの読みにくいそれらの手紙を読む思いにはまだ至らなかったのです。いつか時間ができたときにでも・・・と言う思いのまま、それらの書類や手紙を詳細に見ることなく、ファイルに綴じたままにしておいたのです。

そんな折、国情が大変不穏な方向に向けられようとしてきている終戦70年の節目にあたる今年、子どもたちの未来までがとても案じられるようになってきているのです。

そんな中、ふと、この時期に、母の籠の中の手紙や書類が残されていて、今、私の手元に託されていることになにか意味があるように思えてきたのです。

その残されているものを “父や母のこんなものがまだ残されていたのです”と見せたり、話したりできる人は、もう私の周りを見回してもだれもいないのです。父や母を知っている身近な家族や、親族もほとんど亡くってしまいました。

ですから、今、私にゆだねられているこうした手紙類を私だけの思いにとどめて、このまま封じ込めて処分してしまうことは、私にもとてもできないことなのです。どうしたらいいのだろう。色々と思いは巡りました。

私たち家族はまだ随分と恵まれた状況だったのではないかと思われるのです。サイパン島においてこれまで終戦50年、60年とその節目、節目の年には必ず慰霊祭がとり行われてきました。私もそうした節目、節目の慰霊祭には必ず参列させていただいてきておりました。そこには、突然戦火に巻き込まれ犠牲となった多くの島民や戦前南の島々で暮らしていて戦火に見舞われ逃げ場をなくして何らかの犠牲になられた多くの日本人が日本全国から集まって参列されていました。

そして参列されたたくさんの人たちから見聞きすることは、日常的生活からは予想すらできない、あまりにむごい地獄と化した戦争下に置かれた一般の人々の状況なのです。そうした体験をくぐりに抜けて来られて参列された人々の胸の奥深くにはたくさんの言葉にならない悲しいおもいが秘められていたのです。そして折を得てぽつりと話してくださったのです。

福島に住む知人は、ロタ島で海を眼下に見下ろしながら、まだそのときは、子どもだった彼女が、家族とともに逃げ惑うとき“サイパンの万歳岬から海に飛び込んだけれども飛び込んだところが死体の上で、今ここにこうして生きているのよ”とか、テニアンの式典で初めてお会いして、並んで参列している横で“加藤さん、私は母親を殺してしまったんだ・今からドキュメントを取る人たちをその場所に案内するんだ”と心からの張り裂ける思いを私に告げずにはいられなかったのでしょう。そんなむごい話をどれだけたくさん聞かせていただいたことでしょう。そうした方々のほとんどは高齢でもう亡くなられています。

そうした状況に置かれていた多くの人たちの思いにも共通する母や父の思いを皆さんに知っていただくことにより、そうした思いを受け止めていただいたり、今の日本の状況に少しでも目を向けていただくことができればという思いに至ったのです。

こうした思いをきっかけに、母の手紙や書類に真正面に向き合い、何が書かれているのかを読み取る作業を始めたのです。

父はいったんテニアン島に戻ることができたのでしょうか、母や私たち三人の子供は父に見送られて、テニアンの港から引き揚げてきたと書かれてありました。

その引き上げていた道中や、引き揚げ先の母の実家での暮らしについて、母は実に便せん8枚のうちの7枚目、8枚目は裏表に書かれていて、計10枚にわたる詳細を父に書き送っていたのです。しかし、それは父のもとに届かず、そのまま送り返されてきたのでしょう。その送り返されてきた手紙を母は、やはりずっと保管していたのでしよう。

差出日は昭和19年6月3日となっています。母が書いた行政への提出書類の下書きでしょうか、それによれば、昭和19年5月に引き上げてきて、5月29日横浜着と記しております。

母の手紙は、綴り字でインクも薄れて読みにくいのですが、あまりにも長いので割愛してご紹介させていただこうと思ったのです。しかし、文面からは引き揚げた当時のことが詳細に書かれていますし、まだ36~37歳の年齢で戦後の物の無い時代の中、幼子を抱えて母親としての大変な心配や不安が伝わってもきますので、そのほとんどをご紹介させていただきました。

◆母からの父への手紙

其後お元気で御座いませうか。私等は二十四日横浜港入港  (※昭和19月年5月家族の強制引き上げのためテニアン港にて父と分かれる)一晩 港にて明し 二十五日バスに かどやと云う旅館に運ばれ二十六、二十七、二十八、全員宿りました。
十班、十二班だけ。他はそれぞれ他の旅館に宿り 私等
の宿舎は、一番良かった様です。旅館に入った時最初に呉れた茶
の味 一同 内地は良いわね、と思わず顔みあわせました。
お粥等一回も出ず三度三度はご飯に二品か三品の副食物付、
最ご飯は うどんやら唐モロコシ等混じって居りますが結
構美味しく頂けました。宿泊中は色々調査があり全員、
シャツ、ズボン、毛糸のジャケツ、洋服、靴下、手袋襟巻キャラメル三個
洗濯?(石混)石鹸三個 化粧石鹸二個と羽二重様の男には水色の切(※きれ)五
ヤール 女にはモモイロ公紀、博子は純綿・・・二切を 博子は可
愛い花柄模様の着物に 可愛い 帽子まで・へて、私は
反物一反、それぞれ裸で上がってもすっかり身支度できるほど
・に 無量でいただきました。それから御油(※母の実家)から 迎へを
頼もうと思いましたが 鉄道が混み 迎へ人の切符なんかは
買えないとの事 幸ひ 川﨑先生 辻野先生(引率者班長)
か富山なので 米原経由のいただいた切符を 捨て 富山廻り
の切符を買って貰い二十八日午後九時、上野発二十九日午後
一時半福井駅に下車しました。上野駅までは、公紀には随分
心配させられますが先生方が大変良く面倒を見てくださいまし
たので本当に助かりました。汽車は大変混みました。翌朝まで座席
が取れず博子を負ったまま立ち通し一睡もしませんでした。
一成、公紀には眠かって困り、仕方なく通り道に其のまま寝かせました。
寝る場所だってやっとなのでそれはそれは可愛そうでこんな調
子ではとても福井まで行けるかしらと泣けましたが富山過ぎ
てからはうんと座席も取れ楽になりました。宿は二食
分の弁当も呉れました、金沢に着きました時には本当になつか
しく一度下車したい様にさへ思ひましたが又何れの日にか
訪れ度う御座います(※渡南する前家族は金沢に住んでいました) 金沢、直江津までは汽車は
辨当、及茶、新聞等売っておりました 汽車中 子供も頂い
たキャラメル、南洋を出たときの乾パン ドーナッツ、の残 それに
船員が沢山子供に金平糖を呉れましたので退屈しません
でした。船中にても一成 公紀を他のどの子よりも船員が可愛がり
一成等7晩中一晩位しか私のそばに居ず他は船員が借して
て呉れと船員のベッドで休み、他の者は一度も入浴しないのに
風呂に入るやら頭を刈って貰うやら金平糖その他菓子等貰い
何も退屈せず何時も船員と遊んでおりました。茶等貰ふ事も 行列作りますが私は一成が船員から何時も美味しい茶を貰って来て呉れました。船員は果物、菓子等沢山くださいましたので本当に助かり有難く思ひました。それから食
の時の辨当箱も大変間に合ひ、何から何まで貴方の
御心盡しの通りと本当に感謝致しました。降りるとき船員にお礼に
砂糖を少しやりました。でも船中は随分怖い思いをしました。
横浜で子ども三人連れ 伊勢崎町に行き 松や野沢
やの両デパートを見ました。欲しいものは 切符制で他は何も買
ふ物もありません。が公紀は目を丸くして内地はいいね。何でもある
ね、と大変喜び 一成は刀掛に 立派な刀が掛けて ウインドに出て
ゐるのを見て あの刀買って呉と一時動かないので弱りました。
横浜の宿で今度は特別チッキが許されましたので いただきまし
た物及び不用品は宿へ砂糖をアルレリンワイスの罐に一杯やりまし
たら厳重に荷造り送って呉れました本当に横浜辺りは物々交
換で医者の診療さへそうだそうです。砂糖の貴重なる事お父様のお言葉通り何もかも身に沁みました。私等の宿では上では
遠藤 榊原 石山 瀧本 川崎 辻野先生 松島様親子等です。川﨑先生には博子のミルクの(湯)から
御油宛電報、切符、貴社の乗り降り、すっかりお世話になりましたのでお
砂糖をワイスの罐に一杯あげました。尚貴方がらも両先生に礼状を出してくださいませ。汽車の乗り降りのトランク、子どもの心配まで
両先生にして頂き 本当に助かりました。福井におりました時
御油の兄 浜住の姉が迎えに来 海苔巻ととろろ昆布ときなこを巻いた
真っ白のおにぎりを沢山持って来て呉れ駅の側で親子むさぼる様
に食べました。船中は明けても暮れてもかぼちゃばかりで、梅干し
か何か缶詰を持ってくるのだと思い子どもが可哀想で、公紀なんか、「かぼちゃが嫌だ」と云いますからそれでは何を食べるのと云います「なにもささん
とご飯にお茶だけかけて食べるの、公紀我慢するの」といい 涙が
出ました。一成は一寸船酔いしましたが公紀は一番元気で一番困りました。
浜住で兄の親子を見るので食事が困るため私等は
御油で過ごすことにきまりました。今の所 安典、信子等
大変子供を可愛がり 兄も姉も皆大事にして呉れ
学校も 八日から 天津佼を入学するよう頼んで呉れました。
本も村の子供にゆづって貰ひ 何もかも兄がやって呉れました。
家に着くまでは殆 金は不要なくらいでした。荷物がまだ届か
ないので子供の着る物に困り 御油の家は寒いので一同
風邪引き 毎晩炬燵で休みます。博子は綿入れ二枚も
着せられ身動きも出来ずに泣いてばかりおります、一成、公紀は
毎日、庭でかにをつかまへたり、山へかめを つかまへたり 日増しに友達
も出来ると思います。それに安典さんが庭の栗の木に早速ブランコを作って呉れました。 寺には託児所もあり、二人の子供が行き
ます、衣類 切れ等も八十点 余人共 余分に貰ひました。唯子供
が何か何かとお八つを欲しがるのに困ります。ミルク類でも
下駄でも なんでも入れておくってください。 はさみ一丁でも一五円も二十円もする早です。
お餅,御飯、野菜、お赤飯
等 美味しいのが充分頂け 博子は信ちゃんがよくお守りして
呉れます。船から上がった時 夕方等一成はお父様どうし
てゐるかしら、南洋へ帰りたい。お父さん一人置いて来て
可哀想だとしくしく泣き出します。公紀は内地が好い
と喜び 気まま一杯ですが 一成では 少しは遠慮と云う気も
あるのでしょう。ションボリすると可哀想です。そして
お父さんも早く内地へ帰って来たらいいね、と云ってます。
安典さんが大きなトラックを作って呉れますから作るあとからこはし
てゐます。余り寒さするので冬になったらどうしようか
と今から着類等心配です。兄は家の山で炭も焼いてゐるし
薪もたくさんあるから 心配するなと云ってますが 御油のボロを
引き出して子供の普だん着等作ります。雑誌は御油
には一冊もありませんので 全部荷物に入れてお送りくださいませ。
尚主婦の友社はこちらから移住届書を出しましたが婦人の友社の方は
住所がわかりません、後から送って来たのでしょうか 子供の
繪本一冊も思う様にありませんから何でも荷物に入ったら
送ってくださいませ。
色々 お話し度い事は山々ですが今日はこれにて
内地は丁度若葉の頃 田植えも始まり、山ではしき
りに うぐひすが鳴いてゐます。
では何卒お自愛くださいまして お働き下さいませ
坊やたちは毎晩お父様の御無事を仏様にお祈
りさせてやすみます どうぞ呉ぐれもお酒など自重され
子供の為にお働き下さいませ さようなら
福井は横浜等に比べまだ品物もある様におもわれますので
他は冬に備へる為少し買い物しようと思いますが物を買ふと
お金のはかない事 本当に物が高く 使いでがありませんね
6月2日
博様
梅も一杯なっており グミも少し色づいて来ました。子供が
道で石を拾い洗って 何時しか 私のトランクに入れて置き お母さん
内地の石はきれいだね、つて 一体何処へ持って帰るつもりなのでしょうね・・・
そろそろ蚊も出始め一成 公紀は のみに食はれ 体一面おで
きで一杯膿を持ち痛い痛いと云ってゐます 早く 本 荷物
が来て薬がほしいと思います 四人とも風邪を引き、 一成
は公紀発熱し 医者にかかろうと思います。 国民健保に
も加入しなければなりません、 半年で20円位かけるそうです。
何もかも至極窮屈ですが今年の冬は出来るなら 町の
小さい家でも借りて暖かくしなければ子供ら死にやしない
かと心配です。本当に 親子四人住む家が町に 欲しいと思ひ
ます そしてお父様のお帰りを待ち度うございます
公紀はチョコンと座って 何か考えてゐるらしいので、どうしたのと
いいますと お父ちゃん お万十買ってきたかね、とニッコリするのです、
冬になると きっと 南洋が恋しくなりませう
御油の家へは五拾円出して、配給物全部買って貰ふ事
にしました。お米も私ら四人は別に配給されるのです。雛も7羽買
って呉れましたがまだ若くて産みません。テニアンのひよこは大
きくなりましたでせう。バスは一日4回通って居ります。其中
福井新聞でも取ってお送りする考えです
では 何卒 ご自愛遊ばして 御面倒ですが 何で
もお送り下さいませ、私が 汽車から おりました時、浜住
の姉 兄は思わず 余り やせてと泣きました。
博様