気象業務は今年で140周年を迎えました。明治8年(1875年)の開設当時は内務省地理寮構内で地震観測と一日3回の気象観測を行い東京気象台と名付けられました。その後、全国に公設や私設観測所の数も次第に増えました。

明治16年には各地の観測データを中央に集める気象電報が開始され、日々の天気図が作成され、印刷されるようにになりました。明治16年5月には最初の暴風警報が発表され、防災機関として実質的なスタートを切りました。さらに明治17年6月には全国を対象とした天気予報が毎日発表され、この年の12月には全国的に震度観測が行われるようになりました。明治20年に東京気象台は中央気象台と改称されました。


初代中央気象台長は荒井郁之助です。天保7年(1836)江戸生まれ、父は幕府の代官で恵政を称された人。郁之助は幼少から四書五経小学を学び、また武芸に優れており、19歳で小十人組番士(百俵十人扶持を受け、江戸幕府の職種のひとつで、二十人を一組として将軍の警護にあたった)となりました。

幕末激動期に際し蘭学・洋算を学び、軍艦操錬所で航海術を修得し、江戸湾測量、小笠原諸島航海を実施。1867年海軍奉行となり幕府艦隊を統率しました。明治元年(1868年)8月榎本武揚と共に艦隊を率いて北海道に走り、函館に新政庁を開きました。宮古湾海戦、箱館戦争では艦隊を指揮して勇戦、明治2年5月、五稜郭で降伏し、投獄されました。

明治5年許されて出獄、北海道開拓使御用掛奏任出仕となり、開拓使仮学校(後の札幌農学校・北海道大学)校長となり、最初の女学校を創設併置し、獄中で編纂した「英和対訳辞書」を刊行しました。明治12年内務省地理局測量課長となり、気象事業の拡張を図り全国に測候所を創設し、気象事業の基礎を確立しました。

また、全国大三角測量の創始、標準時の制定、我が国初の皆既日蝕観測(明治20年8月19日新潟で実施)などの業績があります。明治23年8月中央気象台官制制定と共に初代中央気象台長となられました。

9月の県内の気象状況は降水量は一部を除いて多く、気温は全般に低めで、日照時間も少なめでした。(表参照)
■私設観測所とは

藤井能三は富山県伏木の回船問屋を営む豪商で、気象のみならず教育や運輸交通に多大の私財を投じました。また、気象についても造詣が深く、「天文晴雨考」という天気予知帳の存在が知られています。海運業には海上の天気が重要であり、経験や見聞を元に作られたと思います。この中に「三光考(サンコウノカンガへ)」というのがあり、日・月・星の三つの光で、この輝き方をみて、天気を予知しようとしたものであります。一例として、「日ノ色黄ナルハ風。星ノ光キラメキテ白キハ風アリト知ルベシ。月ニカサ有ハカナラス゛、カサノカケタル方ヨリ風来ル」。藤井は明治16年に私財を投じ、東京気象台から観測機器などを調達して富山県私立伏木測候所を設立しました。