家の空き地に植えた藤袴(フジバカマ)。野草としての強さからなのでしょうか、その繁殖力には目を見張ります。今年は空き地いっぱいに広がって、淡紅色と白の花をつけています。その花に劣らない繁殖力で毎年こぼれ種として畑のあちらこちらに生えるコスモス。その苗も抜いてしまうのはかわいそうなので、今年は家の空き地に移植しておきました。

その藤袴(フジバカマ)やコスモスがさわやかな秋風に吹かれて揺れながら今を盛りと咲いています。その風景が、私の心の中でも、吹いて揺れるのです。そして、そのしばしの光景に心も和むのです。

◆周りを新たな視点でとらえると

そして実りの秋。“ばあちゃん、柿のサラダ作って”孫の依頼に、うっかりすると食べ忘れて腐らせてしまいがちな果物。柿や梨、林檎、そして畑に植えられているキウイも、もう食べ頃なのでしょうか、一つ、二つと落ち始めました。そんなキウイも拾ってまとめておいて少し柔らかくなった頃、一緒に豆乳マヨネーズやヨーグルトに、渋柿がぽっとりと熟した熟し柿も加えてあえると喜んで食べてくれるのです。

そして保育園の芋ほりの後、玄関先にどさっと小山ほどにも積んで置いていかれたさつま芋の茎。また大きな籠に振り落とされて集められたばかりのたくさんの‘むかご’(長芋のつるにできる小芋)。その‘むかご’も、抜いても、抜いてもそのこぼれ小芋(むかご)から芽を出しどんなところにでもそのつるをのばし、からんでまたたくさんの小芋をつけるとても繁殖力旺盛な植物なのです。

そして、いつも置いていかれるのはアッと驚くほどの多さです。気合を入れてそれらの処理やよりわけにかかります。‘むかご’は大きさによって料理法を変えなければならないと思うからです。‘むかご’をより分けていると ‘むかご’の球が一瞬、ねずみ色の真珠の玉に見えてきて、まるで真珠をよりわけているような錯覚に陥り笑えてしまいます。

昔、檀家のとてもお料理の上手な方が、行事があるとよくこの‘むかご’の黒胡麻甘味噌和えを持ってこられたのです。 “これは珍味だ”とお客さんからとても喜ばれたものでした。でも、実際にこんなにたくさんあると、はたまたこんなにたくさんどうしましょう・・・という思いでもあるのです。直径2センチ以上の大きいものは小さく切って他の野菜と一緒に ‘かき揚げ’用。ゆで加減に細心の注意を払わなければならないゴマみそ和え。そして、醤油味の‘むかご ご飯’など、いくつかの段階の大きさにより分けました。後はどうして使おうかと考え中です。

そして芋の茎のきんぴら。市場にはあまり出回らないこうした料理は、畑と向き合って暮らしてきた人たちだけに与えられてきた楽しみの料理だったのかもしれません。ですから、昔から田舎の人には好んで食べられてきた料理であっても、今の若い人たちや、一般の人には “知る人ぞ知る料理”になってしまっているのかもしれません。今でも‘芋のじく’や‘むかご’の味に通じていて、季節になると、必ず食べている人たちは、そうした野菜や料理に対する手間暇を決して惜しまないようです。

さすがに“ひゃ―! そこまでするの”と思ってしまうことがあります。それは、さつま芋のじく(茎)の皮を一本、一本むいて料理するのだというのです。人によってだろうとは思うのですが、そうした人が結構いるのです。しかも、その量が半端ではなくても、なのです。

こうした作業は外から考えるととても大変なことに思えるのですが、農作業と向き合って暮らしている人たちにとっては、収穫や食べる楽しみを前にした作業は少しも苦痛ではなく、単調な繰り返しの作業の流れのなかのゆったりとした時間のなかに身をおくことになるそうした時間は、かえって作業そのものが快い、楽しみの時とさえなっているようにおもわれます。

毎年、毎年、折々の季節のリズムのなかで繰り返される数々の農作業。そのなかでハレ的意味合いのある「収穫」は、“喜び”と“感謝”そのものではないでしょうか。人々は、そうしたことをいちいち意識したりはしてこなかったでしょうが、そうした生活の営みの中でおのずと“生きる意志”が培われ、強められ“生きる力”が高められてきていたのだろうと思います。檀家の方々のどんなに高齢になられていても、いつも元気に畑仕事をやっておられる姿を間近で目にするとき、しみじみとそのことを実感するのです。

「シュタイナーの教育の考え方というのは、伝統というものを踏まえて、今あるものの中に未来の芽を見出そうとすることを徹底的に学ぶのです。ですから保守的に、今あるものをそのままに存続させようとするのでもないし、革新的に、今あるものを否定して新しいものを作ろうというのでもなくて、現在あるものの中にどういう可能性があるのかということを見る豊かな認識という考え方なのです。その認識の目がどれくらい問題になるのかというところで、シュタイナーの教育に限らず、シュタイナーのあらゆる思想がそこでいかされているわけです。(『高橋巌 講義録』より 檜原こひつじ幼稚園発行)」               

このような視点で物事を見ていくと、福井の私たちの周りにあって、利便性や快適性や有利性が優先されてきた近年の社会のありようの中で、今まさに消滅しようとしているたくさんのことや、些細なことに対しても、それらをいとおしい思いや、大切な思いに、さらに新たな息吹がかけられることによって、そこにまた新たな意味や視点が見いだされてくるのです。そして、それぞれのその時代に必要なものとしての再生の道も開かれてくるように思われるのです。

◆幼児期において大切なこと

10月11日、福井でも薩摩琵琶の演奏会が行われているということで、その案内をいただき、鯖江の「文化の館」というところに初めて行ってきました。そこに併設されている図書館にも前々から一度行きたいとは思っていたのです。その演奏会が終わって会場を出たところで、保育園勤務時代、共に保育の研鑽に励んだ保育士である職員さんにばったりと出会いました。

結婚され、お子さんも生まれ、その育休からまた保育園に復帰してくださっているということです。その日は、そのお子さんを連れて家族でのお出かけのようでした。思いがけずの再開でした。そして、開口一番に ‘保育界に是非戻ってきてください。そして、わからないことだらけなのでいろいろと教えてほしいのです。’と言われるのです。

その言葉に身がつまされる思いでした。ずっと、いとし子らを残して家を出た母親の思いであったからなのです。

‘たしか『霊学の観点からの子どもの教育』(シュタイナー著 イザラ書房)は一緒に読み合わせしたよね。『7歳までの人間教育』は?’と聞くと、両著共、読み合わせはしていました。

シュタイナーの教育では、「教育問題の中で一番重要な問題は教員の養成の問題」だといわれています。それは親をも含めた、子どもに関わる者すべてという意味においてです。保育という現場を抱えた私たちも、保育者としての在りようを学ぶために毎月、研修会の日を設けて、職員が一丸となっていろいろな研修を行ってきたのでした。そうした中でシュタイナーに関する本もたくさん読み合っていたのです。そうしたことがいろいろと思い出されてきました。

ですから心から信頼できる保育士さんですが、初めての母親としての悩み、それはまた別なのかもしれません。丸々と太って元気そうな赤ちゃんを抱っこされたご主人にとっても同じ思いのようでした。

しかし、ご主人にとっては、初めてのお子さんです。そして、育児に協力的でとても関心を持っておられるようでしたので、奥さんを助け、一緒に子育てにあたっていただきたい思いもあって、ご主人に向けて育児のポイントをお話させていただきました。

‘幼児期はまだ無意識の時代ですから、それだけにとても大事な時期なのですよ’と切り出すと、‘無意識の時代?’と聞き返されてきたのです。

「歯の生え変わる7歳までに、人間は一つの課題を遂行しなければならない。その課題は、人生の他の緒時期の課題とは本質的に異なっている。すなわち身体の諸器官を7歳までのこの時期に、特定の形態まで発達させなければならない。それらの器官の組織構造に特定の方向づけを与えなければならない。成長はその後も続いていくが、その後の成長はすべて、7歳までに作り上げられた形態に基づいて行われる。形態は正しく作り出された時、正しい仕方で成長し続ける。歪んだ形態作り出されたときには、歪んだまま成長していく。7歳までの時期に教育者がゆるがせにしたことを、その後になって取り返そうとしても困難である。生まれる以前には、母体が身体の為に正しい環境を作ってくれたが、生まれた後は教育者が正しい物質的な環境を用意しなければならない。正しい物質な環境だけが、正しい子どもの身体形態を与える働きをするからである。」(『霊学の観点からの子どもの教育』イザラ書房、または『シュタイナーコレクション1子どもの教育』筑摩書房)

この「7歳までの時期に教育者がゆるがせにしたことを、その後になって取り返そうとしても困難である」という文章が、子どもとかかわるとき、いつも私の脳裏からはなれなかったのです。

本当にここに書かれているように、幼児期の教育者の在りようがそんなに子どもにとって決定的なことなのだろうか? そしてその修正はそんなに難しいことなのか? と。

※多くの人は決して子育てをゆるがせにして子育てをしてきているのではないと思うのです。それなりに一生懸命子育てにあたられてきているのです。しかし、どんなに一生 懸命やったといっても人間、完全ということはあり得ないのです。
※そして、子育てに対する捉え方や、考え方に違いは当然あるのです。
※また大人は勤めていたり、それぞれ仕事があったりして毎日が忙しいものです。ですから、乳児期のように誰かが子どもにかかりっきりになってその教育に当たるということなどはなかなかできないものです。
※また、子育てというのは、植物を育てるようにすぐにその結果が出てくるものではありません。その後の何十年かのあとになってようやくその結果が表れてくるものなのです。ですから子育てについて正しかったとか、正しくなかったという判断はなかなか下せないものだと思います。また人間(じんかん=世間)万事塞翁が馬”ということわざにもある様に、良し 悪し、幸 不幸は一概に決められない人間の妙味のようにも思われるのです。

しかし、気がついてその修正にあたろうとしたとき、それは決して容易なことでないことは、これまでの私の子育てや、孫育ての体験を通しても痛切に感じてきていることではあるのです。

教育のやり直し、修正はできないことではないと思いますが、実際には大変な時間を要したり、実に大変なことであるのは事実なのです。

肉体の形成期である幼児期がいかに重要な時期で、後には修正困難な時期であるかということは、「心(アストラル体)」というのは、瞬時、瞬時に変わるものですが、いったん身に着いた「習慣や性格や癖(エーテル体)など」は「心」の変化のようにはすぐには変わりません。まして「肉体」の変化はそう容易に変化するものではないからです。

そうした、心の変化は秒針に、習慣や癖などの変化は長針に、そして肉体の変化は短針によく例えられているのです。