◆「由利公正」の講座始まる

昨年12月10日から1月下旬までの4回にわたって、福井市郷土歴史博物館において「由利公正という個性」というテーマで角鹿尚計館長さんによる講座がありました。この講座を知って、日頃、歴史好きの小学生の子たちもどんなにこの講座を聞きたいことだろうかと思いました。講座が行われる日は、どの日もウイークデーで、子どもたちは学校があって参加することができないのです。しかし、私にとってはかえって好都合ではあったのです。週末ですと、何かと用事があってかえって参加できないことも多かったからです。残念がる子どもたちのせめて代理として受講させていただき、その一部でも伝えてあげることができればと思ったのです。

私の小、中学校時代での授業においては、歴史の授業といってもあまり記憶に残っていることは少なく、特に近代史となると、大概の授業ではそこまでいきつけなかったことも多かったのでしょうか、全く空洞の状態できております。ですから、「由利公正」といっても福井ではその名はよく知られている存在ではありますが、詳細には理解しておりませんでした。

しかし、最近福井県を挙げて、この人物をNHK大河ドラマ誘致の第一候補として押す動きが顕著になってきているのです。そんなこともあって、もう少しクリアに理解しておきたいという思いもあったのでした。

久しぶりに受けさせていただいた角鹿氏の、様々な文献に通じておられるその内容に、それ故、折々に?混じる角鹿節(失礼!)の講座は、何か古巣に帰ったようで楽しく、懐かしささえ感じられるのでした。そして「由利公正」についてひとかたならぬ思いも伝わってきて、1、2回目の講座では、まるで幕末の由利公正の時代にタイムスリップしてその時代にいるかのように、その人となりや、その時代が手に取るように見えてくるようなお話でした。次回からが楽しみにさえ思えるのです。ですから小学生たちにもこの講座を聞かせてあげたいというおもいがひとしおでした。

孫の剣道の練習も終わって帰る準備ができる間、当日の講座の資料や、同時に開催されている企画展「福井の甲冑」の案内を見ていると、剣道の練習が終わった子らが興味深げにその資料をのぞき込んでくるので、‘歴史、好き?’と聞くと好きだというのです。歴史が好きだという子が意外に多いのには驚きました。

それで、その企画展の案内を20部近くいただいて、次の稽古の時にみんなに配ると、ほしいといってすぐになくなってしまいました。そんなに歴史が好きならばと、歴史博物館にも特別にお願いして、みんなでその企画展「福井の甲冑」を見に行くことになり、10名あまりのお子さんと保護者の方が参加されたのです。歴史博物館は初めてだというお子さんも多く、これを機会にまた足を運んで歴史への関心が深まればとおもいます。

「例えば、聖徳太子は実在しているのでしょうか、それとも架空の人物でしょうか。それは歴史家によっても意見が分かれます。学習指導要領などで、日本の代表的な人物としてまず第一に聖徳太子の名があげられるのですが、もしその聖徳太子が架空の人物だとすると、科学的な立場から言えば、こんなでたらめな教育はない、ということになります。けれども、もし私たちが聖徳太子の姿を生き生きと心の中に保ち・・・まるで現在のことのように子どもに話すならば、それは子どもの歴史的感覚にとって、とても良い教育になるのです。そのときに、聖徳太子が実際に存在するのか存在しないのか、学術論文をいろいろ読んで、子どもの前で、こういう説もあるし、こういう説もある、と言えば、知的好奇心は刺激されても、子どもは過去の時代の中へ感情によって入っていけません。個人の生活史のなかでも十年前の出来事が感情的に生きていれば、それは直ちに今の問題になります。感情にはそういう特徴があるのです。」(『気質と年齢に応じた教育 シュタイナー教育を語る』高橋巌 角川選書)と書かれていたことが、この講座で大人である私にも腑に落ちて理解できたことでした。

そして、「国立若狭湾青少年自然の家」で行われている子どもたちを対象にした行事のように、それぞれの施設が互いにつながり合って、さらに社会的支援として学校教育にもつながっていけば、子どもたちの学びにおいても、その学びがより一層楽しく深まっていくようにも思われるのです。

◆記憶力をはぐくむ

さらに、そうした子どもの成長について『シュタイナー教育を語る』には、

子どもの成長期には、その時どきにその成長期でなければ登れない山があって、子どもは皆その山の頂点まで登りたがっているのです。
ところが多くの場合、その山の麓から上に登ることさえも許されない状況で、次の時期を迎えてしまうのです。そこで子どもは、無意識的、本能的にどこかおかしい、という思いを抱いて成長していくのです。
小学校の時のいちばん大きな山は感情の山です。子どもはこの時期には、思いっきりうれしいと感じ、思いっきり心をはずませ、何かわくわくすることを思いっきり体験したい、と心から願っています。そういうことを教育の中に生かされると、記憶力も育つし、学習意欲も育つのです。」

「シュタイナーが考えている感情教育の観点が二つあります。その一つは、第二・七年期に感情を思う存分発揮できた子どもは、記憶力を発達させることができるという観点です。それからもう一つは、やはりこの時期に感情をそれぞれ自分なりに納得できるように体験できた子どもは社会に対して積極的に参加する意欲をもつようになる、という観点です。」と書かれています。

子どもの教育についてシュタイナーは自分の考えていることをすべて凝縮させて述べたといわれている『シュタイナーコレクション子どもの教育』(筑摩書房)には「記憶力」について次のように述べられているのです。

「第二・七年期の子どもにとって特別に大切な魂の力は、記憶力である。記憶力の発達は、エーテル体の発達と関連している。・・・この時期には、記憶力を育てるために、外から十分な配慮がなされなければならない。もしもこの時期に、必要な事柄をゆるがせにしてしまうなら、本来持ち得たよりも、はるかに貧弱な記憶力しか持てなくなるであろう。そして一度ゆるがせにされたものを、後になって取り返すことはとても難しくなるのである」

シュタイナーは、私たちが陥っている誤った「記憶力の指導」に対し、さらに語調を強め、とても厳しい表現を使って指摘し、次のように述べているのです。内容的には少し理解し難い文章で、難解な用語が使われているように思われますが、大変重要な内容だとおもいますので、書かれている文章のままにご紹介させていただきます。

「唯物論的な思考方法はこの点で多くの誤謬を犯しかねない。この思考方法から生まれた教育論は、記憶力を身につけることに対して、否定的な態度をとる。記憶力だけの訓練に対して、あらゆる種類の批判の矢を向ける。そして理解できないものを暗記させようとすることに対して、可能な限りの洗練された方法で、非難を加える。
確かに理解することは大切である。しかし理解することだけを大切にする唯物論的な思考は、抽象的な概念なしに事物の本質に関わることなど不可能だ、と信じている。事物を理解するのには、別な魂の働きが、少なくとも知性と同じ程度に必要だということが、理解できないのだ。感情や感覚や心情によっても、知性によるのと同じように、事物の本質が理解できる。概念は世界を理解する諸手段の一つであるにすぎない。知性を世界を理解するためのただ一つの手段であると思うのは唯物論的な立場にだけ生じる誤解である」

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